センスのいい名前が思いつかない

フツーの人間が書くフツーのブログです。多分面白くないです。でも読めば何かを感じていただけるかもしれません。

インプットとアウトプット

2021年3月7日放送の「R-1グランプリ2021」を見た。

 

真剣にR-1グランプリ(過去会は「ぐらんぷり」)を見るのは初めてだったので、期待していた。放送の評価はネットをにぎわせる通りで、私自身もおおよそ似たような感想だ。

 

  • ネタの途中に、MCを務めた広瀬アリスさんの笑っている姿を必ず1度抜く。視聴者(私)は笑っている広瀬アリスさんを見たいのではなく、ネタを続けてみたいのに。エンタの神様白石美帆的位置づけだった(あの演出も私は嫌いだった)。
  • ハリウッドザコシショウさんが、服をきちんと着て真面目に評価コメントをする、というだけで十分面白く話題性があるのに、コメントを求められたのは2回くらいだけ。全体的に、審査員全員のコメントをもっと聞きたかった。
  • 優勝したゆりやんレトリィバァさんの1回戦ネタを番組終わり際に再放送。そしてゆりやんさんの号泣からの変顔のネタもきちんとカメラが追えず、画面の端っこに(私はちゃんと見て、笑ったよ)。なんと決勝の審査員別得点内訳は、番組終了後にTwitterで発表ということだった。
  • 始まってすぐに広瀬アリスさんの番宣。本人に罪は無いのだが、これは非難の対象になってしまってとてもかわいそうだ。後でネットを見ると、最終回間際のドラマらしい。うーむ。
  • Creepy Nutsの曲が、頭から離れない。これはCreepy Nutsにとってはよかったのか。ずっと流れてたからなぁ。魚釣りで、一度くらいついた魚にに逃げられるのを「バレる」という。番組の評価はまさに「バレた」感じだ。

 

肝心のネタはというと・・・全体的に大爆発はなく、小笑いくらいだったろうか。

ZAZYさんの「なんそれ」が、最後の最後で「なん_れ」になってしまっていた。フリップを止めるクリップがついたままになっていた失敗(もしかして計算?)もあったが、一番面白かったのは、ZAZYさん本人が番組後に、これらの2つの失敗を早速ネタにして、Tシャツを売り出したことだ。良いセンスだと思った。

 

1人で笑いを取るというのは、難しいのだなとも感じた。舞台での掛け合いを楽しむ漫才とは違い、オーディエンスと演者との間で生まれ出る呼吸のようなものを、うまく作り出す必要がある。

そういう意味では、ZAZYさんやかが屋の賀屋さん、森本サイダーさんは(それぞれ違う方法だが)うまく空気を作っていたなぁ、と感じる。

 

優勝したゆりやんレトリィバァさんのネタは、「何か面白くて変な動きをしている人を笑う」というものに近く、どちらかというと傍観者のような見方になった。はまったら面白いのだろうが、一傍観者の域を出ないと「何しているんだろ、この人」と冷静になってしまう。「わかるわかる」とか「確かに」という共感できる部分が見つからないとしんどい。

 

高田ぽる子さんは、芸歴2年目ということだったが、個人的には面白いと感じた。見た目のほんわかさと、ネタの薄気味悪さと、無駄に上手いリコーダー演奏の、ミスマッチの妙が感じられた。

マツモトクラブさんのネタは、1巡目の一人芝居と、2巡目の一人芝居のセリフが完全一致していたら感動したのだが、微妙に変えていた(任意同行とか)のがやや残念に感じた。初めてネタを見たので、2巡目の前半に「おっ、そう来たか」と期待した分、しりすぼみ感を感じてしまった。

 

などと言っているが、お笑いに全然詳しくないので、これらは全くの素人感想なのだが、これをプロが見たらどういう感想になるのかを審査員から聞きたかった。

あぁ、そういう見方なのか、そこがこの人のうまさなのか、といったことを聞けば、もっとお笑いを面白く見れるかもしれない。演者のネタというインプットが、お笑いのプロを通せば、どんなアウトプットになるのか、とても興味深い。

 

今回のR-1グランプリをみて感じたこと。それは、「これだけ叩かれているけども、きっと番組制作側は「これが面白い」と思って企画したんだろうなぁ」、ということだ。

  • Twitter投票による視聴者ポイント
    → あまり大勢に影響もなく、単なる時間のロスだと感じたが。その時間でもう2人くらい審査員のコメントは出せただろう。タブレットの画面を抜くという空前絶後のパワーアクションには驚いた。
  • 優勝ネタの再放送
    → 千鳥のクセスゴとか、細かすぎて伝わらないモノマネ選手権のおかわりとかを参考にしたのか。結婚式のエンディングじゃないんだから流さなくても・・・。
  • 霜降り明星の司会
    → もっとうまく活用できただろう・・・。制作側は彼らに何を期待してキャスティングしたのか。
  • おいでやす小田の無駄遣い
    → スルーするのが面白いのなら、番組最後まで完全スルーしてほしかった。
  • U-NEXT同時配信の実況副音声
    → 途中まで同時に見たけどネタにも集中できないし、実況も集中できないし、どっちつかずになり途中で見るのをやめた。審査員の評価コメントが少ない分、興味はあったのだが、活用できなかったのは残念だった。
  • 10年目までの芸人に突然限定
    → このおかげでM-1グランプリの「おいでやすこが」が誕生したのは功績だった。「スタッフも10年目までに限定したのか?」と揶揄される結果になったが。

などなど。

 

時間の使い方とか、段取りのまずさとか、そういうのは生放送なのでトラブルもあるだろうが、あらかじめ「面白いだろう」「視聴者は求めているだろう」とおもって企画されたであろうことが滑っているのは、非常に興味深い。

企画会議で、「こういうのが面白いんだ」「こういうのを視聴者は求めているんだ」と声高に言った人がいて、きっとその人の言うことは絶対で、誰も否定もできないし、対案を出しても丸め込まれたんだろうなぁ、とか、勝手に妄想している。

 

番組は、まさに一人芸と同じで、演者とオーディエンスの呼吸を作り出すことだと思う。一方的にこれが面白いんだ、と言われて芸を見せられても、呼吸がズレればクスリとも笑えない。

 

クラスで爆笑をかっさらっていると無駄に自信満々な、素人高校生漫才コンビの内輪ネタを見せられているみたいだったな。

 

青春を謳歌する者よ

青い、という言葉には、未熟という意味が含まれている。果実が熟する前の様子や新緑のすがすがしさを想起させる。

 

春、という言葉には、みずみずしい若さを感じさせる。四季のある世界ならではだろうが、春という言葉には誕生を思い起こさせ、これから実を結んでいく将来を期待させる。

 

それらが合わさった、青春という言葉である。澄み切った響き、字義のさわやかさが、誰もが経験してきた甘酸っぱい記憶を思い起こさせる。

青春時代に、何か間違ったことをしてしまった経験はないだろうか。いわゆる「若気の至り」というものだ。ちなみに「若気の至り」とは「子供のやることだから」と同じで、やってしまったほうが言うものではない。道を踏み外してしまった若者や子供に対して、大人が寛大な態度で赦すときに言うものである。

大人になったからこそ、若い人たちの過ちを赦すことができるのだろう。

 

近くの公園で、まれにタバコを吸っている中学生を見かける。正義感の強い私は大変憤るわけだが、一方でそういうものに興味を持ち、大人に見せかけたい年頃であることもわかる。注意すべきなのか、しかし面倒なことに巻き込まれたくないという気持ちもあり、結局、見て見ぬふりをする。

 

注意をするにしても、しかたがあるだろう。いきなりボコボコにするのは違う。かといってペコペコ下手に出るのも違うのだろう。注意の仕方がわからない。結局、見て見ぬふりをする。

 

私はタバコを吸ったことが無い。もし中学生の時にタバコを吸って大人に怒られた経験があれば「おじさんも子供のころは見つかってよく怒られてたな。気持ちはわかるし、いま怒ったりしないけども、ちゃんと火の用心をして、近くに子供がいたら吸わないようにな。それがマナーっていうものだよ。」みたいな注意の仕方ができるのかもしれない。でも残念ながら経験がない。結局、見て見ぬふりをする。

 

堂々とタバコを吸う彼らから、これから甘くみずみずしい実を結ぶ姿や、将来の希望に満ちあふれたすがすがしく健やかな姿は、残念ながら想像できなかった。

青春という、美しい響きとはかけ離れたものだった。誰しも通る大人への反抗や抵抗、大人になることへの渇望があるのだろうが、それを仲間とつるんでタバコを吸うということでしか表現できない未熟さが、かわいそうだった。

 

もし彼らが、喫煙所で、携帯灰皿を片手に、肩身の狭いサラリーマンのように小さくタバコをくゆらせていたら・・・。つい「いろいろ苦労しますね」なんて言ってしまいそうだ。

 

グループでタバコを吸い、唾を吐き散らかし、「俺たちは強いんだ」という自己顕示欲と威圧の塊になっている。そんな「俺たちに敵はない」といわんばかりの誇示は、酔って気が大きくなりあたりかまわずケンカを売る、しがないサラリーマンとよく似ている。

 

成熟していない形だけの大人も、いる。なのに大人になれば責任がついて回る。自分の子供がタバコを吸っていたら遠慮なく殴るけど、他人の子供だから犯罪者になって紙面を飾ってしまう。大人になんてなりたくなかったのに。結局、見て見ぬふりをする。

お金の使い道

昔なら買っていたものが、サブスクで使用料を払って使うケースが増えてきた。

自分はあまり多くは導入していないが、世間にはいろいろあるようだ。

 

サブスクとは「サブスクリプション(購読)」の略語だ。略し方がイマドキっぽい。車も所有せずにリースやカーシェアを使ったり、音楽も定額で聞き放題というのが定着してきた。生ビールの定期購入というのもあるし、ウォーターサーバーを設置して水を定額購入するのも増えてきた。

一昔前からすでにあった、巨大なストレージを定額料金を支払って使えるような仕組みや、BSやCSなどの衛星放送などもそうだろう。

サブスクが定着すると、あまり使わないのに無駄にお金を払っていることもある。

私も最近、払っているけど使わない月もあるな、という契約があれば解約するようにしている。当然続けたほうが得なこともあるのだが、今不要なものにお金を使うほど資金に余裕がない。

 

コロナの影響で外出も控えるようになったため、今まで当たり前のように払っていた乗換案内アプリの定期購入も、もしかしたらしなくなるかもしれない。

 

お金の使い方にメスを入れる場合、毎月定額で使っているものをターゲットにすると調整しやすいらしい。

保険がまっさきにやり玉にあがる。保険って高いよね。高い保険にしているからなんだけども。死んだときに家のローン残分が賄えるような簡単なものに切り替えて、浮いたお金で健康的な生活にしよう、と思うようになった。

投資信託などに充てれば、増えていく可能性もあるし。

 

飲み代を節約すれば、そんなこと考えなくてもいいくらいにはなるんだろうけども。

今まさにある欲求に勝たない限り、よい未来にはならないのだろう。

 

 

酒を控えて健康に、お金も貯まってWin-Winに。

わかっちゃいるけど、やめれらない。

期待と満足

期待が大きいと、がっかりすることがある。

「期待しています」と言われると、うれしい反面、「あぁ、この人をがっかりさせてしまうかもしれないな」とネガティブな気持ちになってしまう。変な癖だ。

 

期待というのは、期待する側の自分勝手なものであるので、その期待を裏切るだの裏切らないだのは、期待された側にとってはどうでも良いことだ。

 

「期待させておいて!」という表現もよく見るが、これも勝手に期待したのはそっちだろ、ということだと思う(普通、これを言うとケンカになるが)。

 

契約などでサービスレベルが定義されていない限り、期待に必ず応えてくれる保証はなく、期待に応える義務もない。契約として決められていることがあるのなら、それは期待ではなく約束だ。約束を違えることはダメだ。

 

とはいえ、人は誰かに期待したいものである。期待に応えてくれると満足するのは事実だ。

期待を察知してうまく満たせると、「気が利く人」だったり「顧客満足度が高い会社」だったり、良い評価を得られる。期待に応える義務はないといったが、期待を想定して、応えるよう努力すればそれなりのメリットもある。マニュアル接客が一時期批判されたこともあったが、顧客の多様な期待をシャットアウトしている印象を与えてしまっているのだろう。

 

誰かの期待に応えるのは義務ではないが、その期待を充足させるよう努力することが、どうやら社会や人間関係を円滑にするらしい。

 

期待する側に目を向けてみる。

過剰な期待はメリットが無いと思うが、ほどよい期待は相手にとって良い栄養剤となる。期待に応えられたという満足感を得らえるからだ。

期待をかけるというのは、自分の満足のためではなく相手の満足のためにするのがよいだろう。自分の利益を追求する、自分の満足のために期待するのではなく、相手を尊重しお互いに満足度を上げるために期待する方が、健全な気がしてきた。

 

期待に応えていることを表すのは感謝が一番だ。

レストランに行って「ご馳走様」というのは期待に応えてくれた意思表示だ。

家事をしてくれる家族に「ありがとう」というのもそうだ。

仕事を頼んだ相手をねぎらうのもそうだ。

全て、「自分の期待に応えてくれているよ」という気持ちを伝え、相手を満足させるためにやっていることだと思う。

期待は、小さく。でも、どんなに小さな期待でも、応えてくれたのであればお礼を言う。これだけでどれだけ人生が豊かになるだろうか。

 

誰かの結婚式でスピーチすることになったら、このネタを加工して使おう。適度な期待は、相手を尊重することだと思う。褒め上手になってみんな気持ちよく生きていきたいものだ。

「危険」な行為、ルール考

世の中には、危険なことがたくさんある。日本は比較的平和だと言われているが、かといって明日が保証されているわけではない。

絶対安全なことなどはない。生きている限り死ぬリスクがあるのは必定だ。

 

明らかに無鉄砲な、命知らずなことをしているわけではない(=安全基準として法律などで決められていることに従う)のであれば、その範囲内で行動することは自由である。

立入禁止区域でスキーやスノーボードをしたり、明らかに無謀な計画で登山をしたり、命綱もないまま高い場所でスリルを味わったりするのは、やっぱり違うと思う。こういうのは自由とは言わないというのが私見だ。どうしてもやりたいのなら、それが妥当であるという権利を勝ち取ってからすべきだ。でないとルールを逸脱していることをとがめられるだけであり、単なる蛮行である。

 

ここでのポイントは、ルールを逸脱しているから、すべきではないということだ。

「危険だからするな」ではなく、(危険だからだと思うが)「禁止されていることをするな」という論理である。

 

冒頭でも述べた通り、世の中、危険なことはたくさんある。

単に危険だからという理由でそれらを排除するのは違う。危険なことだが、そのリスクをなるべく小さくする(あるいは平準化する)ルールを設定し、その中で楽しんだり体験することは認められる。

「危険=排除」であれば、自動車の運転もできないし、飲酒も喫煙も、ギャンブルも、スポーツも、何もできなくなる。やらない方がいいという人もいるかもしれないが、やってはいけないということはない。やる自由、やらない自由がある。

何か行動を起こす以上生命を脅かすリスクはあるので、そのリスクが容認・回避・納得できるようにした上で許可された行動をとるのだ。これが運転免許制度であり、法制度であり、スポーツのルールブックである。

ルールを守っていても怪我はするし事故はする。それは完全に免れないものなので、自動車事故=即刑務所ではないのである。悪質であると判断されたときに相応の処分がある。つまり、人は誰でもミスはあるよね、という前提に社会のルールは成り立っているのだ。

 

さて、言いたいことがややわからなくなってきたが

  • 生きている限り死ぬリスクが必ずある
  • 人は誰でも(何らかの)ミスをする

この観点で物事をとらえると、ある程度の危険は承知の上で生きていかねばなるまい。野球観戦中にファウルボールが直撃して亡くなることもゼロではない。飛行機事故に遭って亡くなることもゼロではない。だからと言って、これらを理由に野球観戦を禁止したり、飛行機の運航を禁止することはない。

発生するリスクよりも利便性や楽しさが明らかに優先されている。リスクの発生確率にもよるのだろう。

 

まとめると、

生命や財産の危険 < 一般の利便性、娯楽性 であればルールを設定

生命や財産の危険 > 一般の利便性、娯楽性 であれば行為を禁止

この天秤がどちらに傾くかは、その時代の価値観や技術向上によって変わるので

時代によって解禁されたり、禁止されたりというのが変わる。

 

江戸時代は混浴が当たり前だったが、今は条例によってある年齢以上は混浴は禁止される。これも時代に伴い価値観が変わった例だろう。

AT限定免許ができたのも、トランスミッションをマニュアルで操作できなくても問題なく安全に運転できる技術ができたからだと思う。

 

危険なのは「自分の行動に比して相対的に危険と思われる行為をしている人を取り上げ、比較対象にして、自分は安全であり危機を回避できていると、思い込むこと」ではないだろうか。

 

 私はバイクに乗らないから安全 → バイクに乗る人は危険 → 危険なことに家族を巻き込むなんて野蛮、大事な人をバイクに乗せるなんて野蛮、というのは違う。

ルールの中で、ルールを守り、資格を保有しているのであればその中で何をするもの自由である。批判するのは自由だが、その批判に乗じて自分は安全だと思いたいのであれば考えを変えたほうがよいように思う。

 

 

話は変わるが、都内の高校で「地毛証明書」なるものがあり、それが批判されているニュースを見た。過去にも学生の頭髪染色禁止はおかしいと有名人がSNSで投稿し、世間の議論が真っ二つに分かれているのを見たことがある。

 

頭髪の染色を禁止するのは、「服装の乱れは心の乱れ」という価値観から来ていると思われる。昔は不良というのは普通、服装を乱していた。学校指定の制服を校則に従ってきて、頭髪も服装も正しくしているバリバリの不良なんて見たことが無い。

逆に、校則に従った服装をしているが悪事を働くやつはきっといるだろう。でも肝心なのはそこではない。学校が決めているルールを破っている時点で、学校の基準に照合すると、すでに悪なのである。

社会人であれば、就業規則違反や内部統制違反は、立派なコンプライアンス違反であり懲戒・訓告・注意の対象だ。

 

学校にとっての危険とは、学生の本懐である勉学と成長が損なわれることである。

学費を払って将来のために成長したいと思って学校に通っている学生の、願いや目的が損なわれないようにし、教育や指導を通じて国力を高め社会を成熟させるために将来に向けた人材育成をすることが学校の存在意義だ。これが損なわれてしまうことは、あってはならない。

学校が何十年も存続する中で培われた安全管理の観点から、服装の乱れや身だしなみの乱れが、真面目に勉学に励み将来を夢見る学生の願いを乱してしまうとして定義された校則なのだろう。厳格な校則があることを「安心」と感じて我が子を通わせる親だっているはずだ。

 

学校の感じる危険 > 学生の利便性、充実さである以上、校則が変わることはない。

学校の感じる危険 < 学生の利便性、充実さととなれば、校則は変わるだろう。

 

つまりは「染色=悪ではない」という価値観が一般的になれば、校則も変わってくるのだろう。手っ取り早いのは、そういう学生を育て上げることだ。服装も自由、髪型も自由、そのためか発想もクリエイティブで自由闊達、切れる頭脳、高いIQ、世界に羽ばたく人材がどんどん輩出される・・・そんな学校があれば、右に倣えで染色が四の五の言われなくなるのかもしれない。

世の中の茶髪にしている学生諸君、ぜひ茶髪にしたい学生のために、世間から一目置かれる立派な学生になってくれ。

 

 

またまた話が変わるが、身体障碍者専用の駐車スペースに、健常者が車を停めていると「なんだこいつ」と思う人は多いだろう。私もその一人だ。

もちろん、身体障碍者の関係者がそこに車を停めても、とがめられることはない。

ただし無用のトラブルを避けるためにも、運転者または同乗者が身体障碍者である証明を車に常備し、フロントガラスの見えるところにおいていたりする。歩行者専用道路に侵入しなければならない場合は、通行証があり、見えるところに掲示する。これらについての文句は聞いたことが無い。なのに「地毛証明書」には物言いがつく。

現在定義されているルールの中で、そのルールを守っているんですよ、という表明なのだが、こと校則となると過敏に反応してしまう傾向があるらしい。理由はわからない。

結論:定められたルールに従っているよ、という意思表示によって尊厳が守られるのであれば、守られる最大の努力をしておいて損はない。ルールがおかしいというのであればルールを変えるようにすればよい。批判はルール変更ではない。ルール変更は、当事者たちが望むゴールに到達するための最短距離を模索することだ。

特別視と蔑視とレッテルと

とある物事を分析するとき、カテゴライズすることが有効である。

例えばマーケティングだと、年齢層、性別、地域、品種、など様々である。これ以外にもたくさんの事例があるだろう。

よくあるカテゴリーの例として

  • 性別
  • 国籍
  • 人種
  • 民族
  • 年齢層
  • 居住地/地域
  • 学歴
  • 出自
  • 職業
  • 婚姻状況
  • 宗教観
  • 血液型
  • 支持政党
  • 好きな野球チーム

などが、ぱっと思いついた。むむ、これはいろんな意味で危ういテーマになりそうだ。

 

いわゆる「差別」という言葉で表されるように、こういったカテゴリー(属性ということにしよう)を元に、特定の属性にある人たちを貶めたり、不幸にさせたり、悪い扱いをしたり、虐待したり、することは許されない。これは社会通念上そうであるし、人道的にも当然のことだと言える。

阪神ファンはとっとと阪神電車で帰れー なんて決して言ってはいけない

 

一方で、これらの要素によって区別された事柄を、すべて同一視することも難しい。というよりできない。簡単な例で言うと、「平日に休みがあり土日に働いている人」と、「完全週休二日制の人」とでは、全く同じように予定を立てられるわけではない。それぞれの属性による特徴を元に、各々や、あるいは相互に協力し、スムーズに社会が動くように努力している。

 

この属性というのを、対立構造を作ってあおることに使うことは、容易だ。

阪神ファンと巨人ファンが、同じ居酒屋で飲んでいる。ちょうどテレビで両チームが試合をしているとする。

ヘボピッチャーだのヤジったり、相手チームのミスを喜んだり、これ見よがしにホームランを喜んだり、順位でマウントをとったり、こういうことをすればそのうちケンカになるだろう。

 

なぜ、属性から対立構造が生まれるのか。

それは、各々がその属性を「大事なこと」としてとらえているからだろう。自分がその属性であることを汚されたと感じる、否定される、揶揄される、蔑視される、そういう扱いを受けたと感じると、人は憤る。

 

まさに「蔑視」という言葉にあるように、その属性を取り上げて蔑まれることを許せない。その点はとても理解できるし、私も蔑視されることは嫌だ。

  • あぁ、あの大学出身なのか。じゃあなるべく簡単に説明するね。
  • 男って、肝心なところでいつも逃げるよね
  • 関西人って、ずけずけ土足で入ってくるよね
  • 英語もできないなんて、貧乏な子供時代を育つと後が大変だね

ほっといてくれ、っていうかお前に俺の何がわかる、といいたくなる(※上は事実とは無関係です)。

逆に、「特別視」というのもある。

  • あの大学出身なの?きっと高収入なんでしょうね。
  • 男らしくて素敵、力持ちだね。
  • 関西人っておもしろいよね。
  • 彼は貧乏だったからこそ、人の痛みがわかるんだろうね。

これらは属性に対して一種のレッテルを貼っているのだが、表現のベクトルがポジティブな方に向かっている。

ポジティブなのか、ネガティブなのかで大きく印象が変わるのだが、これらの言葉を「ポジティブ」なのか「ネガティブ」なのか、どっちで読み取るかによって印象が大きく変わる。

やはり属性を使って何か特別な表現をすることは、慎んだ方が無難なようだ。

 

 

少し視点を変えれば、阪神ファンも巨人ファンも、同じ野球ファンである。野球を愛するものとして互いのプレーを尊重し、いいプレーには賛辞を与え、悪いプレーは正しく非難すればよい。そうすれば対立ではなく野球というものを楽しむことができる。

 

安易な対立構造に逃げず、その状況で本当に達成すべき目的だったり、理想的な世界になるにはどうするかを建設的に考えられるようになりたいものだ。

個人的にもつい対立構造に逃げてしまう傾向があるので、常に自省していきたい。

だるい

からだが、どうもだるい。

歯肉が痛い。軽い偏頭痛。左腕がだるくて、目がしょぼしょぼする。

 

からだの左側に、不調が現れることが多いのですが、なんなのでしょうね。

それにしてもやる気が全く起きない。土日に仕事をすればいいや、という気になっているが、結局土日もやらない。

月曜日早く起きてやろうと思っても、結局ギリギリまで寝てる。

そもそも、今やろうとしていることも先週やらないといけなかったことで、奇跡的に今週に引き延ばせた。

あぁ、なにやってんだろう。ブログなんて書いている暇ないはずなのに、どうしてただ時間だけは過ぎていくのか。

 

しかし、体がだるい。

 

やる気になっても、だるさでやる気を失う。頭の中は常に「できなかった理由」を考えている。

 

さて、仕事するか。と思いながらも、コンビニに行く準備をしている。なぜ?