特別視と蔑視とレッテルと
とある物事を分析するとき、カテゴライズすることが有効である。
例えばマーケティングだと、年齢層、性別、地域、品種、など様々である。これ以外にもたくさんの事例があるだろう。
よくあるカテゴリーの例として
- 性別
- 国籍
- 人種
- 民族
- 年齢層
- 居住地/地域
- 学歴
- 出自
- 職業
- 婚姻状況
- 宗教観
- 血液型
- 支持政党
- 好きな野球チーム
などが、ぱっと思いついた。むむ、これはいろんな意味で危ういテーマになりそうだ。
いわゆる「差別」という言葉で表されるように、こういったカテゴリー(属性ということにしよう)を元に、特定の属性にある人たちを貶めたり、不幸にさせたり、悪い扱いをしたり、虐待したり、することは許されない。これは社会通念上そうであるし、人道的にも当然のことだと言える。
阪神ファンはとっとと阪神電車で帰れー なんて決して言ってはいけない。
一方で、これらの要素によって区別された事柄を、すべて同一視することも難しい。というよりできない。簡単な例で言うと、「平日に休みがあり土日に働いている人」と、「完全週休二日制の人」とでは、全く同じように予定を立てられるわけではない。それぞれの属性による特徴を元に、各々や、あるいは相互に協力し、スムーズに社会が動くように努力している。
この属性というのを、対立構造を作ってあおることに使うことは、容易だ。
阪神ファンと巨人ファンが、同じ居酒屋で飲んでいる。ちょうどテレビで両チームが試合をしているとする。
ヘボピッチャーだのヤジったり、相手チームのミスを喜んだり、これ見よがしにホームランを喜んだり、順位でマウントをとったり、こういうことをすればそのうちケンカになるだろう。
なぜ、属性から対立構造が生まれるのか。
それは、各々がその属性を「大事なこと」としてとらえているからだろう。自分がその属性であることを汚されたと感じる、否定される、揶揄される、蔑視される、そういう扱いを受けたと感じると、人は憤る。
まさに「蔑視」という言葉にあるように、その属性を取り上げて蔑まれることを許せない。その点はとても理解できるし、私も蔑視されることは嫌だ。
- あぁ、あの大学出身なのか。じゃあなるべく簡単に説明するね。
- 男って、肝心なところでいつも逃げるよね
- 関西人って、ずけずけ土足で入ってくるよね
- 英語もできないなんて、貧乏な子供時代を育つと後が大変だね
ほっといてくれ、っていうかお前に俺の何がわかる、といいたくなる(※上は事実とは無関係です)。
逆に、「特別視」というのもある。
- あの大学出身なの?きっと高収入なんでしょうね。
- 男らしくて素敵、力持ちだね。
- 関西人っておもしろいよね。
- 彼は貧乏だったからこそ、人の痛みがわかるんだろうね。
これらは属性に対して一種のレッテルを貼っているのだが、表現のベクトルがポジティブな方に向かっている。
ポジティブなのか、ネガティブなのかで大きく印象が変わるのだが、これらの言葉を「ポジティブ」なのか「ネガティブ」なのか、どっちで読み取るかによって印象が大きく変わる。
やはり属性を使って何か特別な表現をすることは、慎んだ方が無難なようだ。
少し視点を変えれば、阪神ファンも巨人ファンも、同じ野球ファンである。野球を愛するものとして互いのプレーを尊重し、いいプレーには賛辞を与え、悪いプレーは正しく非難すればよい。そうすれば対立ではなく野球というものを楽しむことができる。
安易な対立構造に逃げず、その状況で本当に達成すべき目的だったり、理想的な世界になるにはどうするかを建設的に考えられるようになりたいものだ。
個人的にもつい対立構造に逃げてしまう傾向があるので、常に自省していきたい。