センスのいい名前が思いつかない

フツーの人間が書くフツーのブログです。多分面白くないです。でも読めば何かを感じていただけるかもしれません。

「危険」な行為、ルール考

世の中には、危険なことがたくさんある。日本は比較的平和だと言われているが、かといって明日が保証されているわけではない。

絶対安全なことなどはない。生きている限り死ぬリスクがあるのは必定だ。

 

明らかに無鉄砲な、命知らずなことをしているわけではない(=安全基準として法律などで決められていることに従う)のであれば、その範囲内で行動することは自由である。

立入禁止区域でスキーやスノーボードをしたり、明らかに無謀な計画で登山をしたり、命綱もないまま高い場所でスリルを味わったりするのは、やっぱり違うと思う。こういうのは自由とは言わないというのが私見だ。どうしてもやりたいのなら、それが妥当であるという権利を勝ち取ってからすべきだ。でないとルールを逸脱していることをとがめられるだけであり、単なる蛮行である。

 

ここでのポイントは、ルールを逸脱しているから、すべきではないということだ。

「危険だからするな」ではなく、(危険だからだと思うが)「禁止されていることをするな」という論理である。

 

冒頭でも述べた通り、世の中、危険なことはたくさんある。

単に危険だからという理由でそれらを排除するのは違う。危険なことだが、そのリスクをなるべく小さくする(あるいは平準化する)ルールを設定し、その中で楽しんだり体験することは認められる。

「危険=排除」であれば、自動車の運転もできないし、飲酒も喫煙も、ギャンブルも、スポーツも、何もできなくなる。やらない方がいいという人もいるかもしれないが、やってはいけないということはない。やる自由、やらない自由がある。

何か行動を起こす以上生命を脅かすリスクはあるので、そのリスクが容認・回避・納得できるようにした上で許可された行動をとるのだ。これが運転免許制度であり、法制度であり、スポーツのルールブックである。

ルールを守っていても怪我はするし事故はする。それは完全に免れないものなので、自動車事故=即刑務所ではないのである。悪質であると判断されたときに相応の処分がある。つまり、人は誰でもミスはあるよね、という前提に社会のルールは成り立っているのだ。

 

さて、言いたいことがややわからなくなってきたが

  • 生きている限り死ぬリスクが必ずある
  • 人は誰でも(何らかの)ミスをする

この観点で物事をとらえると、ある程度の危険は承知の上で生きていかねばなるまい。野球観戦中にファウルボールが直撃して亡くなることもゼロではない。飛行機事故に遭って亡くなることもゼロではない。だからと言って、これらを理由に野球観戦を禁止したり、飛行機の運航を禁止することはない。

発生するリスクよりも利便性や楽しさが明らかに優先されている。リスクの発生確率にもよるのだろう。

 

まとめると、

生命や財産の危険 < 一般の利便性、娯楽性 であればルールを設定

生命や財産の危険 > 一般の利便性、娯楽性 であれば行為を禁止

この天秤がどちらに傾くかは、その時代の価値観や技術向上によって変わるので

時代によって解禁されたり、禁止されたりというのが変わる。

 

江戸時代は混浴が当たり前だったが、今は条例によってある年齢以上は混浴は禁止される。これも時代に伴い価値観が変わった例だろう。

AT限定免許ができたのも、トランスミッションをマニュアルで操作できなくても問題なく安全に運転できる技術ができたからだと思う。

 

危険なのは「自分の行動に比して相対的に危険と思われる行為をしている人を取り上げ、比較対象にして、自分は安全であり危機を回避できていると、思い込むこと」ではないだろうか。

 

 私はバイクに乗らないから安全 → バイクに乗る人は危険 → 危険なことに家族を巻き込むなんて野蛮、大事な人をバイクに乗せるなんて野蛮、というのは違う。

ルールの中で、ルールを守り、資格を保有しているのであればその中で何をするもの自由である。批判するのは自由だが、その批判に乗じて自分は安全だと思いたいのであれば考えを変えたほうがよいように思う。

 

 

話は変わるが、都内の高校で「地毛証明書」なるものがあり、それが批判されているニュースを見た。過去にも学生の頭髪染色禁止はおかしいと有名人がSNSで投稿し、世間の議論が真っ二つに分かれているのを見たことがある。

 

頭髪の染色を禁止するのは、「服装の乱れは心の乱れ」という価値観から来ていると思われる。昔は不良というのは普通、服装を乱していた。学校指定の制服を校則に従ってきて、頭髪も服装も正しくしているバリバリの不良なんて見たことが無い。

逆に、校則に従った服装をしているが悪事を働くやつはきっといるだろう。でも肝心なのはそこではない。学校が決めているルールを破っている時点で、学校の基準に照合すると、すでに悪なのである。

社会人であれば、就業規則違反や内部統制違反は、立派なコンプライアンス違反であり懲戒・訓告・注意の対象だ。

 

学校にとっての危険とは、学生の本懐である勉学と成長が損なわれることである。

学費を払って将来のために成長したいと思って学校に通っている学生の、願いや目的が損なわれないようにし、教育や指導を通じて国力を高め社会を成熟させるために将来に向けた人材育成をすることが学校の存在意義だ。これが損なわれてしまうことは、あってはならない。

学校が何十年も存続する中で培われた安全管理の観点から、服装の乱れや身だしなみの乱れが、真面目に勉学に励み将来を夢見る学生の願いを乱してしまうとして定義された校則なのだろう。厳格な校則があることを「安心」と感じて我が子を通わせる親だっているはずだ。

 

学校の感じる危険 > 学生の利便性、充実さである以上、校則が変わることはない。

学校の感じる危険 < 学生の利便性、充実さととなれば、校則は変わるだろう。

 

つまりは「染色=悪ではない」という価値観が一般的になれば、校則も変わってくるのだろう。手っ取り早いのは、そういう学生を育て上げることだ。服装も自由、髪型も自由、そのためか発想もクリエイティブで自由闊達、切れる頭脳、高いIQ、世界に羽ばたく人材がどんどん輩出される・・・そんな学校があれば、右に倣えで染色が四の五の言われなくなるのかもしれない。

世の中の茶髪にしている学生諸君、ぜひ茶髪にしたい学生のために、世間から一目置かれる立派な学生になってくれ。

 

 

またまた話が変わるが、身体障碍者専用の駐車スペースに、健常者が車を停めていると「なんだこいつ」と思う人は多いだろう。私もその一人だ。

もちろん、身体障碍者の関係者がそこに車を停めても、とがめられることはない。

ただし無用のトラブルを避けるためにも、運転者または同乗者が身体障碍者である証明を車に常備し、フロントガラスの見えるところにおいていたりする。歩行者専用道路に侵入しなければならない場合は、通行証があり、見えるところに掲示する。これらについての文句は聞いたことが無い。なのに「地毛証明書」には物言いがつく。

現在定義されているルールの中で、そのルールを守っているんですよ、という表明なのだが、こと校則となると過敏に反応してしまう傾向があるらしい。理由はわからない。

結論:定められたルールに従っているよ、という意思表示によって尊厳が守られるのであれば、守られる最大の努力をしておいて損はない。ルールがおかしいというのであればルールを変えるようにすればよい。批判はルール変更ではない。ルール変更は、当事者たちが望むゴールに到達するための最短距離を模索することだ。