期待と満足
期待が大きいと、がっかりすることがある。
「期待しています」と言われると、うれしい反面、「あぁ、この人をがっかりさせてしまうかもしれないな」とネガティブな気持ちになってしまう。変な癖だ。
期待というのは、期待する側の自分勝手なものであるので、その期待を裏切るだの裏切らないだのは、期待された側にとってはどうでも良いことだ。
「期待させておいて!」という表現もよく見るが、これも勝手に期待したのはそっちだろ、ということだと思う(普通、これを言うとケンカになるが)。
契約などでサービスレベルが定義されていない限り、期待に必ず応えてくれる保証はなく、期待に応える義務もない。契約として決められていることがあるのなら、それは期待ではなく約束だ。約束を違えることはダメだ。
とはいえ、人は誰かに期待したいものである。期待に応えてくれると満足するのは事実だ。
期待を察知してうまく満たせると、「気が利く人」だったり「顧客満足度が高い会社」だったり、良い評価を得られる。期待に応える義務はないといったが、期待を想定して、応えるよう努力すればそれなりのメリットもある。マニュアル接客が一時期批判されたこともあったが、顧客の多様な期待をシャットアウトしている印象を与えてしまっているのだろう。
誰かの期待に応えるのは義務ではないが、その期待を充足させるよう努力することが、どうやら社会や人間関係を円滑にするらしい。
期待する側に目を向けてみる。
過剰な期待はメリットが無いと思うが、ほどよい期待は相手にとって良い栄養剤となる。期待に応えられたという満足感を得らえるからだ。
期待をかけるというのは、自分の満足のためではなく相手の満足のためにするのがよいだろう。自分の利益を追求する、自分の満足のために期待するのではなく、相手を尊重しお互いに満足度を上げるために期待する方が、健全な気がしてきた。
期待に応えていることを表すのは感謝が一番だ。
レストランに行って「ご馳走様」というのは期待に応えてくれた意思表示だ。
家事をしてくれる家族に「ありがとう」というのもそうだ。
仕事を頼んだ相手をねぎらうのもそうだ。
全て、「自分の期待に応えてくれているよ」という気持ちを伝え、相手を満足させるためにやっていることだと思う。
期待は、小さく。でも、どんなに小さな期待でも、応えてくれたのであればお礼を言う。これだけでどれだけ人生が豊かになるだろうか。
誰かの結婚式でスピーチすることになったら、このネタを加工して使おう。適度な期待は、相手を尊重することだと思う。褒め上手になってみんな気持ちよく生きていきたいものだ。